夜。
あおいは部屋で、日記を書いていた。* * *
あおい荘に住むことになった次の日、つぐみと一緒に買い物に出かけた。
直希の好意で、衣服や日用品を購入したのだが、ひと通り買い終えた頃につぐみから、「他に何か、必要な物はあるかしら」そう聞かれ、我儘と思いながらもお願いしたのが、この一冊の大学ノートだった。風見の家にいた頃の自分は、ただの人形だった。父が望むような娘になることだけを考え、父の言う通りに生きてきた。
その自分が風見の家を捨て、生まれて初めて自分の意思で、自分の足で人生を歩もうとしている。 直希と出会い、直希から、「ここにいてもいいんだよ」そう言われた瞬間から、自分は生まれ変われたような気がした。 新しい人生の始まり。 その一日一日を書き記していきたい。そう思い、ノートの表紙に「あおい日記」と書いた。「……」今日の分を書き終えたあおいが、ノートをめくる。
どのページを見ても、口元がほころんでいく。 辛いこともあった。哀しいこともあった。 しかしどれを見ても、自分にとっては宝石のように輝いた、何物にも代え難い大切な思い出だった。 そして。その思い出の全てに直希がいた。どんな時も直希は一番前に立ち、問題の解決に全力を尽くしていた。
そんな直希を間近で見ながら、あおいはいつも憧れの気持ちを持っていた。菜乃花のいじめの事件から、もうすぐ一か月になる。
あおい荘はこれまで以上に明るく、和やかで楽しい場所になっていた。 大きな事件が起こるたびに、それを乗り越えた時に感じるこの気持ち。 人はこうして、絆を深めていくんだと学んだ。菜乃花の時、これまでのどんな事件よりも重く、暗い絶望感があおい荘を支配した。
自分にとって師でもあるつぐみの傷心、その姿にショックを受けた。 4人しかいないスあおい荘の正面玄関に、一台のタクシーが止まった。「着いたようね、直希」「ああ。じゃあみんな、玄関までお迎えに行こう」「はい!」 * * * スタッフ会議の翌日。 直希たちは入居者を集めて、大西節子の入居に関しての説明を行った。 プライバシーを損なわないよう気を付けながら、直希は丁寧に大西の状態を伝えた。話を聞いていく中で、山下や小山、そして栄太郎も複雑な表情を浮かべていた。「それで、なんですけど……みなさんの中で、例え一人でも大西さんの入居に反対ということであれば、この話はなかったことにしようと思ってます。今の話を聞いた上で、みなさんの正直なお気持ちを聞かせてほしいのですが……と言っても、ここで反対というのは言いにくいと思いますので、後でお一人ずつ、俺の方から聞きに伺おうと思います」 そう言って締めくくろうとした直希に向かい、生田が声を上げた。「私は……直希くん、それにスタッフのみなさんが出した結論なら、構わないと思う。ここは確かに、自立した高齢者の為に作られた施設かもしれない。しかし私たちだって、いつその方のようになるかも知れない。だがそうなったと言っても、君たちは私たちを無下に退去させてしまったりしないだろう。そういう意味で直希くんたちは、あおい荘が次のステージに上がれるか、それを見定めようとしているように思えるんだ。 それに……私はこのあおい荘が、むやみに人を選別するような場所になってほしくない、そう思っている」「生田さん……ありがとうございます」「直希ちゃん、私も同じ意見よ」「山下さん……」「話を聞いて、本当は少し怖いの。でもね、直希ちゃんたちが私の為に、いつも真剣に向き合ってくれてることを思い出したら……そう思ってしまう自分が恥ずかしくなってしまったわ。ここはあおい荘、私たちの
「お父さんの診察では、軽度の認知症ではあるけども、あおい荘への入居は可能ということだった。勿論、暴言や暴力もまだ続いているし、周りの人に対してかなり警戒心を持っている。でもね、元々の原因だった脳血栓も完治してるし、今もあのような状態が続いているのは、別の要因だろうって言ってたの」「別の要因……ですか」「断定は出来ない。でも恐らくは、血栓によって一時的に記憶が混濁した時に、周囲の人の対応が怖かったんだろうって言ってた。自分では何が悪いのか分からない。自分はいつも通りのはずなのに、周りが自分のことを警戒し、無理やり入院させた」「それって……あのその、つぐみさん。以前山下さんに症状が出た時に言ってたことですよね」「よく覚えてたわね、菜乃花。そう、一時的に記憶が混濁した時こそ、周囲の人間の対応が大切なの。勿論、全ての事例に当てはまる訳じゃない。でもね、あの時の山下さんもそうだったけど、自分がおかしくなっているって自覚は、本人には全くないの。なのに周囲が自分の行動を否定して、おかしな人間扱いをする……そうすると、症状がどんどん悪化する、そういうこともあるの。 娘さんを責めるつもりはないわ。だってそんなこと、私たちのようにこの仕事に従事してる人間でも困惑するのに、何の知識もない娘さんが、いきなり豹変した母親を見てしまったら、仕方ないと思うの。 でもね、大西さんはショックを受けた。何も悪いことはしていないのに、娘に無理矢理入院させられた。人間ってね、自由を束縛されると、それを取り戻そうとするの。彼女は病院でも暴れた。ここから出せ、そう言って訴えた。周囲の人から見れば、それはかなり危険な患者に見えたと思う。 暴言に暴力、隙あらば逃げ出そうとする。だから病院は、やむを得ず拘束した。でもそれは、大西さんの中の何かを壊した」「……」「そして次に移されたのが、グループホーム。病院を退院した時、大西さんにも希望があったと思う。これでやっと家に帰れる、自由になれる、そう思ったと思う。なのにまた、見たこともないところに移さ
その日の夜。 直希の部屋で、スタッフ会議が行われていた。 テーブルを囲んでつぐみ、あおい、菜乃花が座り、直希の言葉を待つ。「ごめんね、いきなり呼び出しちゃって」「いえいえ、直希さんはいつも忙しそうにされてますです。こういう時でないと、私たちもゆっくりお話することが出来ません。どうかお気になさらずに……って、直希さん直希さん、ひょっとして私、また何かしましたですか?」「いやいや、あおいちゃんのことじゃないから。心配しなくていいよ」「そうですか……よかったです」「と言うか、最近はあおいちゃん、ミスなんて全くないと思うけど。ここに来た頃と比べても、すごい成長だよ。あおい荘の業務、ほとんど安心して任せられるようになったんだから」「料理以外は、だけどね」「こらこらつぐみ、そこで茶々を入れないの」「はいはい、ふふっ」「それで……なんだけどね、実はここしばらく、色々と動いていたんだけど」「そう言えばそうでした。直希さん、よく外出されてましたです」「やっぱりその……あおい荘に関係あることだったんですね」「うん。実はね、あおい荘に新しい入居者さんを入れようと思ってるんだ」「新しい」「入居者さん」「うん。みんなに黙って動いてたのは悪いと思ってる。でも今回の入居者さんは、ちょっと今いる入居者さんとは傾向が違うと言うか……だから俺なりに色々調べてたんだ。後、東海林先生にも」「つぐみさんのお父さんに……ですか」「うん。だからまあ、つぐみは知ってるんだけどね」「そうなん……ですか……」 菜乃花がつぐみを見る。つぐみは直希の言葉に小さく息を吐くと、あおいと菜乃花を見て言った。「二人にだけ黙っててごめんな
「毎度―っ、不知火でーす」 あおい荘の玄関先で、明日香の元気な声が響き渡った。「明日香さん、お疲れ様です」 その明日香を、食堂から菜乃花が迎えた。「なのっちもお疲れ」「なのっちー、こんにちはー」「こんにちはー」「みぞれちゃんとしずくちゃんも、こんにちは。お母さんのお手伝い?」「そうー。お手伝いー」「お手伝いー」「偉いね。二人共、もう立派なお姉ちゃんだね」 そう言って二人の頭を撫で、菜乃花が笑った。「今、なのっち一人なのかな」「あ、はい。直希さんはお出かけで、あおいさんは入浴の見守り中。つぐみさんは東海林医院で、もうすぐ帰ってくるかと」「そうなんだ。いやしかし……なのっちが一人でお留守番とは、いやはや成長したもんだよね」「ええ? そうですか?」「以前のなのっちなら、残念だけど一人でお留守番、なんてのは無理だったんじゃないかな。一人でいる間に誰かが来たらどうしよう、そんなことを考えながらビクビクと……なんて絵が浮かんじゃったんだけど」 そう言って意地悪そうに笑う明日香に、菜乃花が恥ずかしそうに頬を膨らませた。「何ですかそれ。明日香さんったら」「あはははっ、ごめんごめん。それよかさ、今一人なんだよね。それじゃあちょっとだけ、お邪魔してもいいかな。久しぶりにお姉さんと、お話ししない?」 明日香の誘いに、菜乃花は嬉しそうにうなずいた。 * * *「こらこらあんたたち、あんまりはしゃがないの」「はーい」「はーい」「全く……聞いちゃいないんだから」「はい、明日香さん。お茶、置いておきますね」「ありがとう。しっかし何だね、アオちゃんたちがいないと本当、ここって静かだよね」「そうですね。私も高齢者専用住宅だってこ
「ちょっと理屈っぽくなっちゃったけど、要するに俺が言いたいのはこれ。人生の選択肢なんていくらでもある。ましてや菜乃花ちゃんはまだ18歳。俺たちよりも遥かに多い、たくさんの選択肢があるんだ。 自分が下した決断がうまくいかなかった、そんなことでくよくよしてほしくない。勿論、うまくいくようにベストを尽くすのは大賛成。でも駄目だったとしても、それで菜乃花ちゃんの人生が否定されるなんてこと、絶対にないから。 その上で大切なのは、笑顔でいること。ネガティブな気持ちからは余りいい考えが浮かばない。常に笑顔で、何事にもポジティブになっていくこと。まあ、これが案外難しいんだけどね。でもこれは、俺自身もいつも自分に言い聞かせている」「……」「だから話を戻すけど、逃げることは恥じゃない。これは覚えておいてほしい。そして、折角自分を守る為に逃げたんだから、逃げる前より笑顔になってほしい。自分の選択が間違ってなかったと証明する為にも、自信を持って楽しく過ごしてほしい。そうしたら必ず、次の展開が見えてくるはずだから」「直希さんのお話……そんな風に言われたこと、今までなかったから少し戸惑ってます。本当にその……そんな風でもいいんでしょうか」「菜乃花ちゃんは今、次のステップに進む為の準備をしてるんだよ。生き方の問題だから、時には厳しいことも言わなければいけないこともある。でも今の菜乃花ちゃんは、戦って戦って、ボロボロになっている。今はそういう時じゃないと思う」「……」「要はケースバイケースってこと。菜乃花ちゃん、そんなに深く考えなくていいよ。菜乃花ちゃんの人生はまだまだこれからなんだ。何度でもやり直しはきくし、今よりもいい人生を歩むことだってきっと出来る。だから心配しないで、楽しく毎日を過ごしてほしい、そう思うよ」 * * *「……なるほど。直希くんらしい意見だね」 秋桜を見つめ、生田が微笑んだ。「学校に戻ると決めた時
「あと……すいません生田さん、もうひとついいでしょうか」「……ああ」「台風の日、私その……直希さんと色々お話しすることが出来たんです。それで……その中で、自分の中でよく消化出来てないことがあるんです。お聞きしてもいいですか」「ああ。うまく答えられればいいが」 * * *「私……これからどうすればいいんでしょうか」 直希の部屋で、菜乃花がそう言ってうなだれた。「……」「私……みんなの視線が耐えられなくて、最終的にその……逃げてしまいました。これからどうしたらいいのか分からなくて、帰ってからずっと考えてました。でも……いくら考えても、悪い方悪い方にばっかり考えてしまって……」「……3つかな。俺が菜乃花ちゃんにお願いしたいことは」「3つ……ですか」「うん。まず1つ目は、ちゃんと食べて、毎日お風呂に入ること。そして2つ目は、一日一回でいいから外に出ること。そして3つ目は」「……」「笑顔でいること」「え……それだけ、なんですか」「うん、それだけ。もっと言って欲しかったかな」「いえ、その……私、学校に戻るべきだとか、実行委員、負けずに頑張れとか、そういうことを言われると思ってたので」「そうだね、そう言う人もいると思う。でも俺は、この3つだけ。まず……1つ目は分かるよね。ちゃんと食べてお風呂に入る」「はい……昨日、明日香さんにも言われました」「食べるって